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織田信長の性格や最期は?あまり知られていないエピソード

日本のみらず、外国の歴史好きの方の中で、知らぬ人などいないだろうというのが、この織田信長です。

書店などに並ぶ歴史のまとめ本などの表紙を飾るのも、きっと織田信長が一番多いのではないでしょうか。

とにもかくにも、日本の歴史の中では欠かせない存在であることに違いありません。

では、なぜ人々はこれほどまでに信長に惹かれるのでしょうか。第六天魔王という別名があるほど恐ろしい人物でもあるはずなのに。

そんな信長の性格や最期などについて、いろいろお話したいと思いますが、有名な逸話などはきっとどこかでどなたかが書いていらっしゃると

思いますので、こちらではメジャーな逸話は避け、あまり知られていないエピソードをお話ができればと思っています。

織田信長の出生

織田信長は、1534年5月12日、もしくは28日に尾張国勝幡城(現在の愛知県愛西市)にて、尾張の大名・織田信秀の子として生まれました。

実は、信長は織田の嫡男ではありますが、長男ではありませんでした。母親の土田御前が正室だったので、嫡男として育てられたのです。

母親違いの兄弟、同腹の兄弟をあわせて、10人ほどいたとされています。信長は次男、もしくは三男と言われています。

ちなみに……兄弟とはあくまで「男」兄弟であり、姉妹を合わせると、なんと25、26人はいたのではないかとされています。すごいですね。

さて、信長は幼い頃の名を「吉法師」と言いました。信長に対して父親である信秀はけっこう期待を抱いていたそうです。

ですから、幼い頃から那古野城を与えられるなど将来の織田家当主として育てられていたわけです。

しかし、そんな父親の期待とはうらはらに、信長は「大うつけ」と呼ばれるほどとてもヤンチャな幼少時代を過ごすのです。

庶民と同じような衣類を身に纏い、それだけならまだしも着崩して腰にはひょうたん。地元の子供たちと悪さをしたりと好き放題。

ですが、この頃に一緒に遊んでいた後の前田利家など、有名になる武将もいるわけですから、ある意味この頃から将来に向けての準備をしていたのかもしれませんね。

もっとも、身分関係なく、分け隔てなく接するその心意気は大人になっても持ち続けていて、のちの豊臣秀吉を採用したのもそういったところからなのでしょう。

身分や生まれなどよりも、その人間の能力を重視する。今の世の中でも、とても重宝される上司の姿ではないでしょうか。話を戻しまして。

父親に期待されていた信長ですが、こんな風に大うつけ者としていたわけですから、次第に父親とも確執が生まれてしまいます。

それ以前に、実は実の母との確執もありました。気性が激しくうつけでもある信長を嫌っていた土田御前は、信長の同腹である弟・信勝(信行とも言います)をかわいがります。

以降、信長は信勝とぶつかり合う事になりますが、戦になった時にはさすがに母親の仲介が入りました。

さすがに実の子たちの争いに心を痛めたのでしょうか。しかし、信勝は二度目の裏切りを働いてしまうのです。

さすがに目を瞑れなくなった信長は、信勝は誘い出し殺してしまうのです。

若い頃から骨肉の争いの中にいた信長は、だからこそ強い精神力が育まれていったのではないかと思います。

余談ですが、信勝をかわいがっていた実母・土田御前はその後、信長や同腹の妹・市と共に暮らし、彼らの子(信忠や茶々など)の面倒をよく見ていたと言います。

信長の「異」業

よく、歴史の教科書などで織田信長を学ぶ時、彼が行った偉業について学ぶと思います。桶狭間の戦いから始まり、楽市楽座や長篠の戦。

それらを有名過ぎて知らない人などいないと思います。そんな信長ですが、実はあまり知られていないのですが、民のためにもいろいろと工夫して、その心を掌握していたようなのです。

その中のいくつかをご紹介します。

一つは、まだ信長が清州城の城主だった頃のお話です。まだまだ若い城主に、民も家来たちも不安顔。それは仕方ありません。

なんせ、「大うつけ」と呼ばれていた人なのですから。そんな民や家来のために信長はお祭りをよく開いていたそうです。

その場で、なんと信長は今でいうコスプレをしていました。それは「天女」のコスプレ。すごいですね。

天女のコスプレをして、信長は優雅に舞い踊ったそうです。それも領民のために。

もともと美しい顔をしている信長ですから、この天女のコスプレも美しくないはずがありません。きっと領民たちは手をたたいて喜んだ事でしょう。

はたまた、次は安土城城主の頃のお話。とても美しい城だった安土城。このお城が年に何回かさらに美しく輝く日がありました。

それは「盆」。盆が来ると、信長は安土城に提灯を飾り付け、天守閣を闇夜に浮かびあがらせたのです。今でいうライトアップですね。なんて斬新!

さらに、その安土城の中を、よく一般公開していたというのですから、驚きです。当時の「城」というものは、今でいう軍の総本部のようなところです。

軍事機密事項満載のところです。それを「さあさあ、皆の衆、どうぞどうぞ」と招き入れ、見せていたというのですから驚きです。

しかし、城に入った人達は、さらなる驚きに包まれたのでした。信長の宗教的な考え方として、こういうものがあります。

「御利益のない神に祈るぐらいなら、自分を拝め」というもの。その方がよほど御利益がある、と言いたいわけです。

ですから、なんと安土城の中に寺を作り、自分のご神体を奉ったというのですから驚きです。

とにかく、やることなす事がすべてキテレツ。当時の領民や家来たちはどんな思いでこれらを受け止めていたのでしょう。

冷静な人物なら「マジか……尾張、ヤバクない!?」と思ったかもれしません。

しかし、信長と同じように未来を変えていこうという心意気のある人物なら、きっと瞳をきらきらさせながらそれらを見ていた事でしょう。

織田信長という人物は、人々からの賛否両論がはっきりしてしまうタイプの人物だという事です。

信長のキテレツ命名列伝

信長が変わっていたのは、他にもまだまだあります。その中で知っているようで知らないのが、信長の命名力。

今風で言うと、ネーミングセンス、です。さて信長には大勢の子供がいます。

長男の信忠から始まり、実子だけで20人以上。信長の父・信秀もさながら、信長もすごいですね。

戦国時代、子供が生まれると「幼名」をつける事が当たり前でした。信長なら「吉法師」がそれにあたります。

この幼名ですが……信長が息子たちにつけた幼名はなかなかおかしなものばかり。ここにいくつか挙げていきますね。

まずは長男の信忠。彼の幼名は「奇妙丸」。生まれた時、信長が信忠の顔を見た時に、奇妙な顔をしているな、と思ったから、だそうです。そんな理由で……。

お次は次男・信雄。こちらにいたっては、信長の趣味であった「茶」から想像したのか、はたまた、信雄の髪がそう見えたのか。「茶筅(ちゃせん)」と名付けられました。

お茶の道具の一つで、シャシャシャと音を立てながらお茶をかき混ぜる、あれです。

さて、三男から五男ですが、こちらは比較的まともでした。さすがに茶筅の事もあったので、周りから止められてしまったのかもしれませんね。

「殿、それはあまりにも……」な感じで。

しかし、六男からまたも珍妙な命名がさく裂します。六男は幼名を「大洞(おおぼら)」と言います。

漢字はともかく、読みが「おおぼら」。「おおぼら吹き」という言葉があります。これはホラ吹きとか、ハッタリをかますといった意味があります。

なぜ故、息子にそんな名前を……。続く七男にいたっては、もはや名前を考えるのが面倒臭くなってきたのか「小洞(こぼら)」とつけました。

八男の時には、八男の母親が側室の「お鍋の方」だったので、それになぞってつけられた名前が与えられました。

その名も「酌(しゃく)」。確かに鍋とはセットみたいなものですが……。もっとも、この酌は長丸という名前だった可能性もあるそうです。

そちらの方が普通でいいですね。

しかし、酌、はまだましだったかも……。そんな名前をつけられてしまったのは九男。その名も「人」。

「ひと」と読むのでしょうが、あまりにも……。確かに人なのですけどね。さすがに九男にもなると名前の候補がなくなってきたのでしょうか。

それでも子供は続きます。お次は十男。彼の名前は「良好」といいます。なにかしら良好な時期にあったのでしょうか。

十男は生まれ年が不明なため、その頃に何があったのかは定かでないのですが……。

さて、いよいよ最後の息子、十一男です。ここにきて名付けられた名前は「縁」。

「えん」と呼ぶのか「えにし」と呼ぶのかわかりませんが、最後にこの名前を持ってきたおかげで「なるほど、すべての子供たちとの「縁」を感じたのかしら」

と思える事ができました。もっとも個人的な後付けになりますが。

それにしても、本当に珍妙な名前ばかり。今でいうキラキラネームの発端かもしれませんね。

織田信長の性格

ここまでお話しただけでも、織田信長という人物がいかに「おかしな人」だったか、お判りいただけたのではないかと思います。

今の世の中であれば、「なるほど、そういう考え方もあるのか」と受け入れられるのかもしれませんが、戦国時代当時ではありえない事ばかりだったはずです。

信長という人の特徴にまずあげなければならないのは、とにかく目新しいものが大好きだったという事。

目新しい考え方、目新しい服装、目新しい「モノ」。目新しい考え方としては、先ほどのような事もしかり、戦術においても桶狭間の戦で見せた奇襲、長篠の戦で見せた鉄砲戦の斬段構えなどがあります。

服装に関しても、様々な奇抜さが見られている事で有名です。外国の衣装に身を包んでみたり、西洋の甲冑に身を固めてみたり。

珍しいものはどんどんと取り入れていました。「モノ」もそうです。当時の日本にはなかった地球儀なども手にしていました。

その地球儀を始めてみて、地球というものは丸いのだと知った信長は、すぐにそれを「理にかなっている」と理解したそうです。

それまで人々は、大地や海というものは一枚岩のように続いていて、世界の終わりがくると滝のように奈落の底へと流れていっていると考えていたようです。

ですから、地球が本当は丸いんだよ、という説が流れても、なかなか受け入れられない人が多くいたのですが、信長はすぐに理解したというのです。

頭の回転もとても速い人だったと言えます。また「モノ」の一つに「者」もあります。

日本という小さな国は同一人種で占められています。黄色人種ですね。

そこへ外国人がやってきました。白人です。さらに、白人がつれてきた黒人を目にした時、信長は驚きながらも興味津々だったそうです。

なぜ肌が黒いのか、延々と肌を洗わせたという逸話も残っています。

しかし、それらを恐れるのではなく、なんと信長はその黒人を自分の家来として召し抱え「ヤスケ」という日本名まで与えて傍に置いたのでした。

このように、信長という人物はとても斬新的で周りの人間とは別なものを感じながら生きていたのではないでしょうか。

さて、忘れてならないのは、信長の「第六天魔王」と呼ばれる所以です。それもまた信長の性格にあります。

信長の持っている残虐性は否定できません。比叡山焼き討ちなどがそれに当てはまりますね。確かに、残虐性はあったのでしょう。

信長自身の手紙などにも、そういった事をする事で「鬱憤を散じ」たとあります。

ですが、後世の研究科によって少し違うところもあるのではないか……という見方が強くなっています。

比叡山焼き討ちなどは、比叡山の坊様たちの悪行があまりにもひどく、もはや坊主に非ず、という事で焼き討ちをしたのではいなか、とか。

あと一つ有名なのは、浅井長政親子の遺体から髑髏の盃を作り、正月の酒宴で使用したという話。

これも見せしめ、という見解が強かったのですが、今ではこういった事をする事により、敗れた敵将への敬意の念を表していたとされています。

戦国時代、テレビや映画などではあまり作成される事はありませんが、戦のあとには必ず首実験がありました。

敵将の首をもとに報酬の査定を行うものです。この時も、敵将の首はとても大切に扱われました。きちんと洗われ髪も整え、お化粧までしていたそうです。

そういう風習の流れから、盃にする事で新年という新しい年と古い年の境目に菩提を弔ったという説が浮かび上がっているわけです。

信長の真意は測りかねますが、戦国時代の世なら当たり前の事だったのかもしれませんね。

織田信長の最期

戦国時代にあって様々な偉業を成してきた信長ですが、最期はあまりにも唐突にやってきました。1582年6月21日。本能寺の変です。

家来だった明智光秀の謀反により、本能寺で宿泊していた信長は奇襲をかけられ、少人数で頑張っていたのですが持ちこたえられず、燃え盛る本能寺の中で自害したとされています。

しかし、火がおさまり信長の首を探す明智軍ですが、不思議な事に遺体が消えていたそうです。

実は、信長は本能寺の変から後も生きていた、という説がまことしやかに流れているのはそのせいかもしれません。

しかしながら、本能寺の変では大勢の遺体が燃えてしまいました。そこには織田軍のみならず明智軍もたくさんいたそうです。

当時の技術では、燃焼してしまった多くの遺体の中から信長の遺体を見つける事など皆無だった事でしょう。

ですので「消えていた」ではなく「見つけられなかった」が正解かもしれませんね。信長、齢四十九。覇道の人生は幕を閉じたのでした。

戦国時代の覇王・織田信長

日本人なら誰もが知っている有名な戦国武将「織田信長」。その人生は苛烈を極めました。そんな信長が好んでよく舞ったといわれる「敦盛」。

「人間五十年下天の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり」という一説があまりにも有名ですね。

意味は、天界の流れを考えると、人間がせいぜい生きていられる五十年など、夢まぼろしのようなものだ、という意味になります。

しかし信長の人生は夢まぼろしなどではなく、しっかりと歴史に刻まれているのでした。