貞姫をご存知の方は、果たしていらっしゃるのでしょうか。それほどマイナーなお姫様です。
近年「貞」という字を見ると、某ホラー映画の白いドレスの彼女を思い浮かべてしまうので、何も知らずに「貞姫」という文字を見てしまうと、
なんだかちょっぴり怖いイメージを持ってしまいます。しかし、本物の貞姫は苦難を乗り越えて幸せを掴んだお姫様なのでした。
武田勝頼の娘、貞姫
貞姫が生まれたのは、おそらく1578年前後かと思われます。
というのも、父である武田勝頼の死後、貞姫は叔母である松姫(信松尼)に助けられて八王子まで逃げることになったと歴史の中で記されているからです。
この頃、どうやら四歳という事ですので、おそらく1778年前後というわけです。この貞姫という姫の素性はなかなか秘密めいていまして、詳しい資料などはほとんど残っていません。
限りある資料の中からお話する事になりますが、後に武田の血を後世にまで残す事に成功した一人だという事は、間違いありません。
貞姫の母親は、名前が不明なのですが北条家から武田家に嫁いできた姫様のようです。一般的に北条夫人と呼ばれているようですね。
貞姫が四歳の頃、武田家は滅亡してしまいました。父、武田勝頼は自刃。母の北条夫人も共に自害してしまいます。
一人残された貞姫を救ったのは、先ほどもお話しました、松姫でした。松姫は武田信玄の娘で、幼いころの婚約者、織田信忠との恋心をずっと持ち続けた悲恋の主人公です。
その松姫は貞姫と、小督姫(武田信玄の五男・仁科盛信の娘)、香具姫(甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆・小山田信茂の娘)を連れて逃げました。
途中、落ち武者狩りにあったりしないように、山中を隠れながら。そうしてたどり着いたのが、八王子・上恩方にある金照庵でした。
貞姫は、八王子にたどり着いたと同時ぐらいかもしれませんが、ここで松姫の手を離れます。
一説には松姫と共に暮らして後に結婚した、という説もありますが、史実はどうやら違うようです。貞姫は徳川家康の家臣で高力正長という大名に引き取られる事になりました。
おそらくは家康に命ぜられたのでしょう。養子縁組というわけではなく、面倒を見る、という形で育てられました。
大名家での暮らしですから、いろいろと不自由はなかったと思います。四歳の頃から大名家で暮らしていた貞姫。果たして両親の事は覚えていたのでしょうか。
ちょうど微妙な年ごろだと思いますので、もしかすると忘れてしまったかもしれませんね。それでも、貞姫の中に流れる武田家の血はこうして残ったのです。
貞姫の輿入れ
1602年。貞姫は嫁いでゆきます。相手は宮原義久と言いまして、名門足利氏の子孫になる名家です。
この義久の先代ぐらいまでは足利氏を名乗っていましたが、宮原姓になりました。宮原義久は徳川秀忠に仕えていましたが、
1602年に跡取りだった兄が亡くなり、ここで宮原姓になって高家宮原を継ぐ事になったのです。
ちなみに「高家」とは、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)の事です。
つまり、とても高貴な家柄といえますね。貞姫はそんな家に嫁いで、立派に子孫を残しました。宮原晴克といいます。
宮原の姓ですが、これは嫡子・つまり跡取りのみが名乗る事のできる姓で、他の子たちは穴山姓を名乗る事になっていたようです。
宮原義久との夫婦仲ですが、こちらはとても良好だったのではないかと推測します。
結婚した後も、夫は徳川秀忠に仕え、大坂の陣にも出陣しました。その後、1630年、義久は死去します。原因は不明です。
年齢は54歳でしたので、病気か何かかと思われます。その後も、貞姫は宮原家で生き続けます。
息子の晴克は父親の後を継いで、宮原家の主人になりました。通称は右京進。ちなみに父親の義久の通称は勘五郎と言います。
この息子・晴克の時代になると、宮原家は高家でも表高家の扱いを受けるぐらいに優遇されていて、恵まれた環境にいた事がわかります。
幼いころに、両親の自刃という不幸な出来事がありましたが、貞姫の生涯を見てみると、意外にも幸せな生涯だったのかもしれない事がわかります。
貞姫という人物
最初にもお話しましたが、貞姫に関しての資料はとても少なく、深く掘り下げる事がなかなか難しい人物であったりします。
ですので、これはあくまで個人的な見解なのですが……。貞姫という人は、とても穏やかで優しい人ではなかったかと思います。
というのも、物心ついた頃に武田家滅亡という不幸がありました。それにより父親と母親が共に自害するという悲劇を目の当たりにし、そのあとは辛い山越え。
幼い女子の足での山越えは、とても大変だったと思います。それでも、なんとか山を越えて貞姫は生き延びました。
途中、落ち武者狩りにでもあっていたら、その場で切り殺されていたかもしれません。
なんせ、武田勝頼の子なのですから。松姫のおかげでなんとか紡いだ命は、徳川の恩情にて大切に育てられます。
その間も、武田家の姫という立場から、暗黙の了解として丁寧に扱われていたのではないかと思います。
恩情をかけた徳川家康は、かつて三方が原の戦いにおいて貞姫の祖父、武田信玄によってこてんぱんにのされた経験があります。
後にも先にも、あんな目にあったことはないってぐらい、こてんぱんです。当時の家康にしてみれば、武田信玄ほど怖い人間はいなかった事でしょう。
時に、そんな恐怖感情は尊敬の念に摩り替る事があると思うのです。怖すぎるからこそ、むしろ尊敬する、といったように。
徳川家康は武田信玄という武将にだけは勝てないと思った事でしょう。
貞姫はそんな武田信玄の孫にあたります。生き延びているという情報を得た家康は、きっと貞姫だけでも助けて武田家の血を残そうと思ったのではないでしょうか。
そしてそれがゆくゆくは徳川のためにもなる、と考えたかもしれません。そうして高刀家にて育てられた貞姫は完全に徳川寄りになり、たおやかに成長したのではないかと思います。
その後、高家宮原家に嫁いだ貞姫は、何不自由ない環境て育てられていたせいで、のんびりした性格のまま嫁いだと思われます。
その事が、宮原家にはあっていたのかもしれません。そんな気かしてなりません。
あくまで憶測ですので、本当の貞姫の性格はわかりませんが、こうだったらいいな、と思うばかりです。
貞姫の死
夫となった宮原義久は、1630年に死去しました。では貞姫はどうだったのでしょうか。なんと貞姫はそれから29年も生き続けました。
とても長生きをして、81歳で亡くなったのです。この時代の人物にして考えると、とてもとても長生きだったと思います。
死因は残念ながらわかりませんが、この歳まで生きていたのでしたら、おそらくは病か老衰ではないでしょうか。
貞姫の死後も、高家宮原家は続いていきます。明治時代まで続いたようですね。
武田家は滅亡してしまいましたが、武田の血はこうして長くまで続いたいたのですから、不思議なものです。