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千姫とはどんな人物?生涯や性格について調べてみた

戦国時代には多くの武将が存在します。彼らはその武力を駆使して、様々な活躍を見せました。

しかし、この荒れ狂う時代に活躍したのは、何も武将と呼ばれる男性だけではありません。

戦国の姫として生まれてしまったがゆえに、様々な運命に翻弄され、しかしながら強く生きた女性も多くいるのです。……千姫。

名前を知っている人も多くいるのではないでしょうか。そんな千姫について、どんな人物か、性格や生涯についてお話したいと思います。

千姫といえば、豊臣秀頼

千姫は、1597年4月11日、徳川二代目将軍秀忠と、浅井三姉妹の三女・江の長女として生まれました。

祖父はあの徳川家康で、母方を辿ると祖父母は浅井長政とお市の方。つまり、織田信長の血筋となります。

戦国時代に活躍した名だたる人物達の血を受け継いだ、言わばハイブリッドですね。

千姫は容姿端麗でもありました。この美しさは母方の血ではないかと言われています。

なんせ、祖母のお市の方は、戦国一の美女と謳われていた人物です。千姫がとても美しかったのも納得です。

そんな、戦国のサラブレッドで、更には戦の時代に最後まで翻弄された悲劇の姫でもあった千姫は、7歳の時に結婚します。

相手は母・江の姉であり、歴史的にも有名な淀殿の息子・豊臣秀頼です。

つまり、従兄弟と結婚したことになります。幼い二人の結婚でしたが、仲はとても良かったようです。

戦国時代の女性は16歳になると「鬢削」という儀式を迎えます。これは女性の前髪を揃える儀式になり、そうすることにより成人した証となるのです。

この「鬢削」の儀式の際、なんと鋏を使ったのが夫であった秀頼だという話が残っています。千姫16歳ということは、結婚して九年目。秀頼もまだ19歳前後です。

容姿端麗で愛らしい千姫はきっと、秀頼が前髪を切ってくれている間、恥ずかしそうな嬉しそうな、そして幸せそうな顔をしていたのではないでしょうか。

秀頼もまた、はにかんだよう笑顔を浮かべる千姫を愛しく思いながら、丁寧に大切に前髪に鋏を入れたのではないかと推測します。

思えばこの時が、秀頼と千姫の一番幸せだった時なのかもしれません。それからわずか三年後。1612年、秀頼と過ごした幸せな日々に終止符が打たれます。

大坂夏の陣が起き、大切にしてくれた伯母であり姑の淀殿、そして、最愛の夫秀頼が燃え盛る大阪城で自害してしまったのです。

この時千姫は、淀殿の強い言いつけで大阪城から逃れることになりました。本当なら二人と同じ運命を辿りたかったことでしょう。

この時徳川から千姫の救出が執り行われていた事もありますが、それでも淀殿が引き止めていれば、千姫は城に残ったことでしょう。

淀殿がそうしなかったのは、おそらく妹・江の事も考えたのではないでしょうか。

姉だけではなく、自分の娘まで亡くなってしまったとあらば、その悲しみはとても大きなものとなったでしょうから。

そうして逃れた千姫は、祖父である家康と、父である秀忠に淀殿と秀頼の命乞いをしました。千姫はとても愛らしい姫で、家康からも秀忠からも溺愛されていました。

だからでしょう。孫に嫌われてく無かった家康は、「それは徳川が決めることだ」と、判断を秀忠に任せたのです。

家康はこの頃すでに隠居してましたから、決断は秀忠が、というわけです。もっとも、秀康はその命耐えるまで、秀忠の後ろで威厳を放っていた人です。

この時も、すでに結論は出されていたのですが、それを自分の口から千姫に伝えたくなかっただけなのでしょう。それほどまでに、千姫は愛されていたのです。

しかし、千姫の願いも虚しく、淀殿と秀頼の二人は自害してしまいました。

さらに、父・秀忠は秀頼の忘れ形見、側室の娘・天秀尼(当時七歳)の幼い命まで奪おうとしました。こればかりはと、千姫は命を懸けてこの姫を助けます。

姫は千姫の養女となり寺に入ることで生きながらえたのでした。ちなみに千姫と秀頼の間には子供がいませんでした。

秀頼には、先の天秀尼の他に国松という男児(大坂夏の陣のあと、処刑)もいましたから、子供が作れなかったわけではありません。

千姫もこの後、再婚してから子供が生まれましたので、子供が作れなかったわけではありません。

おそらく、あまりにも幼い頃に結婚し、近くに居すぎたせいで、夫婦と言うよりは兄妹の関係に近いものがあったのかもしれませんね。

人としては大好きですが、異性としてはなんだか違う、そんな感じだったため子供を作ることすらしていなかった可能性もあると思います。

どちらにしろ、千姫は秀頼が好きで、秀頼もまた千姫を愛しく思っていた事には違いないと思います。あまりにも純粋で、あまりにも儚い悲恋でしたが……。

その美貌ゆえの惨事

大坂夏の陣の際、徳川家康はなんとしても可愛い孫娘、千姫を救出しようと思い、家臣にこんな事を言ってしまいます。

「姫を助けた者に、姫を授けてやろう」と。その言葉を信じ、燃え盛る炎に包まれた大阪城から千姫を救い出したのは、坂崎直盛という男でした。

直盛は千姫を見るや一目惚れをしてしまいます。しかし、救出の際に火傷を負ってしまい、それ故に姫を貰い受けることが出来なかったとか。

はたまた別の説だと、千姫救出後、千姫の新しい婿探しを言いつけられた坂崎直盛は、公家との結婚をとりつけます。

しかし、千姫は本多忠刻に嫁いでしまうとのこと。これでは直盛のメンツは丸つぶれです。

とにもかくにも、このどちらかの出来事のせいで、千姫はとんでもないめにあうところでした。

本多忠刻への輿入れが決まり、忠刻の元へ向かう最中、千姫はあわや坂崎直盛によって拉致されるところだったのです。

幸いにも先にこの事が露見し、直盛は自害することに。千姫があまりにも美しかったのも、この事件の原因のひとつではないでしょうか。

二度目の結婚、二人目の夫

最初の夫、秀頼と悲しい別れを経た千姫は、暫くの間、祖父である家康とも、父である秀忠とも口を効かなかったという話があります。

これは真実ではない作り話かもしれませんが、ありえない事はない話ですね。

それでもなんとか、信秀尼の命だけは助けてくれたので、千姫も前を向こうと思ったのかもしれません。

そんな矢先。大坂夏の陣の翌年に、千姫の新しい結婚相手が決まります。桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻です。

こちらも逸話の範囲ではありますが、なんでも千姫たっての願いで忠刻との結婚が決まったという話です。

大阪城落城から、徳川の屋敷に入るまでのどこかで、千姫と忠刻は偶然出会ったそうで、その時に千姫が一目惚れをしたという話ですが……

真実は謎に包まれたままです。あれほど仲が良かった秀頼の死を直面してすぐ、他の男性に心を揺るがせてしまうでしょうか。

通常ならありえないと思いますが、通常ではなかったのが、忠刻の美貌です。千姫もかなり美しい顔をしていましたが、この忠刻もかなりの美男子だったそうです。

二人並んで立っている姿はさぞかし眩しかったことでしょう。それほどまでに美しく若い男性に、千姫は会ったことがなかったのではないでしょうか。

残念ながら豊臣秀頼は、小さな頃から美味しいものをたくさん食べていたせいか、かなりの巨漢だったという話があります。

それプラス、幼い頃からずっと一緒だったので、そこには恋愛感情がなかったとしたら? 千姫は生まれて初めて年頃の、しかもとても美しい男性に出会ってしまったわけです。

心が揺さぶられても仕方がないことかもしれません。さて、本田家としても、千姫との婚姻は嬉しいことばかりでした。

なんせ、徳川家康の孫にして、将軍秀忠の娘です。逆玉状態ではないですか。現に、千姫の輿入れの際には、忠刻の父である忠政に姫路藩15万石が与えられました。

それだけではありません。さらに千姫の化粧料として播磨10万石も与えられました。それまで本田家は桑名城に住んでいましたが、この結婚を境に姫路城へ移り住むこととなります。

みなさんがよく知っている、別名・白鷺城と呼ばれる美しい姫路城です。この時も、かなり凄かったようで。

家康と秀忠は千姫のために、馬500頭、お供800人が千姫に付き添ったそうです。千姫にはかわいそうなことをしてしまったとの、せめてもの償いのつもりだったのかもしれませんね。

こうして新しい生活が始まった千姫ですが、それは幸せな時間を過ごしました。結婚の翌年に長女・勝姫。その翌年には長男で跡取りの幸千代が生まれました。

素敵な夫に可愛い子供が二人。姑であった熊姫との仲も悪くなく、千姫はやっと幸せを掴んだのです。………いえ、掴みかけたのです……。

三年後、跡取りだった幸千代がわずか三歳で亡くなりました。これが始まりでした。お腹を痛めて産んだ我が子を失うことほど悲しいことはありません。

それでも跡取りをと願い妊娠するのですが、すべて流産……。千姫の不幸はさらに深まります。

五年後、最愛の夫・忠刻が病で亡くなってしまったのです。しかも、立て続けに姑・熊姫、実母・江を亡くし、千姫は不幸のどん底に叩きつけられてしまうのです。

こんな状況ですから、本田家の中でも居づらくなっていき、千姫は悲しい日々を過ごすことになります。

しかし、そんな千姫に明るい一筋の光が差し込みました。実弟であり将軍になっていた三代将軍・家光が「こちらで一緒に暮らしませんか」と声をかけてくれたのです。

それは願ってもないことでした。千姫は娘の勝姫を連れて、江戸へと向かいました。この間、たったの十年の出来事でした。

十年の間にたくさんの不幸に見舞われて、これは豊臣秀頼の祟りではないか、とすら思ったそうです。

大好きだった人のことをそう思ってしまうまで追い詰められていたのかと思うと、とても気の毒です。

千姫の性格を考えてみる

初めての結婚から江戸へ戻るまで、千姫の人生は本当に様々なことがありました。ありすぎ、と言っても過言ではないでしょう。

それが戦国に生まれてしまった女の運命と言ってしまえばそれまでなのですが、それほどまでに、過酷な時代だったのかと思い知らされます。

そんな過酷な時代を、千姫は頑張って生きてきました。祖父である家康からも、父である秀忠からも。

そして、豊臣秀頼、本田忠刻という二人の夫からも、千姫はとても愛されていたのではないかと思います。

彼らだけではありません。千姫の周りの女性達もまた、千姫の人柄に好感を持っていたと考えられます。

姑だった淀殿は伯母にあたりますから大事にしてくれていたとしても、本田忠刻の母、熊姫とも仲が良かったそうなのです。

嫁姑関係が上手くいっていたのも、千姫の人柄故なのでしょう。かといって、ただ守られるだけの弱々しい女性ではありませんでした。

大坂夏の陣のあと、秀頼の忘れ形見、信秀尼を助けた時などは、自分の命も省みぬ気迫だったと思われます。また、江戸へ戻ったあとの千姫の生き方を見ても、その人柄がしれます。

とても子供思いだった千姫は、娘の勝姫が池田光政に嫁ぐと彼女の事をとても心配して文などをよく送っていたそうです。

そんな千姫を安心させようと、姉思いの家光が千姫と勝姫の夫、光政を引き合わせたという話があります。

千姫はとても喜び、その後は光政とも親子のように仲良くお付き合いをしたということです。

心配してばかりの姉を安心させようと、光政の参勤交代の時に起こしたサプライズ。こんなことをしてくれるのもまた、大事にされていた証拠ではないでしょうか。

誰からも愛されながら、常に不幸と隣り合わせだった千姫ですが、このように晩年は穏やかで安らいだ日々を過ごしたようです。

こうして、1666年。千姫は静かに亡くなりました。享年70歳。当時にしてはとても長生きだったのではないでしょうか。

人柄よく、周囲から愛された千姫

千姫、と聞くと「大阪夏の陣」「豊臣秀頼」というキーワードか、もしくは「姫路城」というキーワードが浮かんできます。

どちらも幸せであり、不幸だった頃の時代です。晩年は穏やかな幸福に満ちた人生で、亡くなった後も彼女の存在は徳川に大きな癒しを与えていたのではないでしょうか。