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京極高次とはどんな人物?実力はあったの?生涯、子孫、死因について

「蛍大名」という言葉をご存知でしょうか。蛍という生き物は、お尻がぴかぴかと光ながら風情たっぷりに闇を行き来します。

蛍の季節になると、今でもみんな蛍を見に行ったりするものです。とても美しい生き物でありますが、この「蛍大名」という言葉は、ちょっと意味合いが違うようです。

戦国時代、「蛍大名」というあまり嬉しくないあだ名で呼ばれていたのが、京極高次という大名でした。彼はいったいどういう人物なのか、生涯についてお話したいと思います。

京極高次の誕生

京極高次は、1563年、小谷城で生まれます。小谷城とは、浅井三姉妹の父・浅井長政の居城です。

なぜこんなところで生まれたのかと言いますと、実は浅井長政の姉が高次の母となるのです。

ただ、母親が里帰りして出産した……というわけではなく、京極家が浅井家の庇護にあったからだと言われています。

もともと、京極氏は浅井家の主筋でしたが、下克上にあい立場が逆転したのだとか。

そういう理由があったにしろ、長政の姉・京極マリア(洗礼を受けてキリスト教信者になったので)にしてみれば、

実家で子供を産む事ができたのですから、少々の安心感はあったのものと思います。

そうやって生まれた高次は、幼少の頃は人質として美濃の国で過ごしたようですね。これも戦国時代のならいです。

しかし、10歳の頃、高次は足利義昭を責めた信長に従って戦いに赴き、そこで五千石を与えられています。何と言いますか、幼い頃から苦労が絶えない人だったようです。

さらに苦労は続きます。その後、二十歳前後の頃、本能寺の変が起こります。この時、高次は明智光秀側についていました。

しかし、光秀はすぐに討たれてしまいます。懸命に逃げ延びた高次でしたが、相手は秀吉です。いつ捕まるかわかりません。しかし、高次はこの困難を乗り越える事ができるのです。

それは、妹の竜子が秀吉の側室になったからでした。竜子は武田元明という大名と結婚していましたが、この本能寺の変の際、高次と共に光秀の味方となっていたのです。

高次はうまく逃げ延びましたが、元明はだまし討ちに会い殺されてしまいました。

これはもしかすると、美しいと評判だった竜子を狙っていた秀吉の策略だったのでは、という説もありますが、真相は明らかではありません。

ともあれ、竜子はこれで未亡人になったわけで。そこを秀吉が側室にしてしまったのです。

そこで竜子は懸命に兄の命を助けてほしいと秀吉に願いました。秀吉は仕方なく、それを受けたのではないでしょうか。それほど竜子は美しかったのです。

ほどなくして高次は助命され、秀吉に従う事になります。その後、大溝城を与えられて大名となりました。

浅井三姉妹の次女・初との婚姻

高次が光秀の味方をしたのに命を助けられ、しかも城まで与えられて大名に。これを見て、他の大名たちが騒ぎます。

これは妹の力によるものだ、と。確かに妹の懇願によって助けられたところはありますのでなんとも言えませんが、それでも高次なりに頑張ったりもしていたはずです。

秀吉の九州平定においてもそれなりの活躍を見せたりしていましたしね。それでも、周りはやっかんでそう言うのです。

さらに、このやっかみがひどくなる出来事が起こります。それは、高次の結婚にありました。相手は浅井三姉妹の次女・初。

高次の母が浅井長政の姉にあたりますが、初は従姉妹という事になります。

この婚姻は、初が高次の事をずっと好きだったので、初の希望によって執り行われたという説があります。ただ、理由はそれだけではありません。

秀吉が初と高次の婚姻を許したのには、もう一つ別の理由があります。それは、「京極」という名前にあるのです。

実は、先の本能寺の変に際しての助命に関しても、この「京極」という名前がキーワードでした。この京極家。とても由緒ある家系なのです。

戦国時代より遡る、南北朝時代。有名な足利尊氏が幕府を興す際、高次の先祖である京極高氏が活躍し、京極家は大きく飛躍しました。

近江を中心に出雲や隠岐のほうまでの守護職として繁栄したのです。しかし、応仁の乱の後、地盤が緩み始め、近江は浅井家に下克上されて奪われてしまったという事なのです。

つまり、現在、近江では浅井というイメージが強いのですが、高次の時代ではまだまだ京極の名が根強く残っていたので、

近江のあたりを落ち着かせるためにも秀吉は京極の名を傍においておきたかったのではないかと推測されています。

よって、近江をつい最近までおさめていた浅井家の娘と婚姻させる事にも、とても深い意味があったのでした。

ただ、高次はこの婚姻により、さらに「蛍大名」というあだ名が強まります。秀吉の側室である妹、秀吉の一番の側室である茶々の妹との結婚。

もっといえば、徳川秀忠の正室となった江も初の妹としています。これらの力に頼ったからこその大名としての地位だと言われてしまっていたのです。

京極高次の実力

「蛍大名」と呼ばれていた高次ですが、その本当の実力とはどんなものだったのでしょうか。

といいますか、そもそも、高次自身は「蛍大名」と呼ばれてどんな気持ちだったのでしょうか。個人的に思うのですが、あんまり気にしていなかったのではないかと思います。

もし、とても気にしていたのだとすれば、まず初との婚姻話が出た時に断っていたと思うのです。竜子の時でも散々に噂されていたはずですので。

しかし、高次は初を受け入れました。「蛍大名」と言われながらもです。

それはきっと「言わせたいやつには言わせておけばいい」という思いがあったからなのではないかと思います。

裏返せば、高次自身に自分の力を信じる思いもあったのではないでしょうか。

妻や妹などの七光りだけで出世できるほど、この世はあまくないとも悟っていたと思うのです。

そんな高次ですが、確かに相当の実力者でした。女たちの尻に敷かれているように見せながらも、きちんと自分の仕事は果たしていたのです。

その中でも一番の実力を見せつけたのが、関ケ原の戦いでした。関ケ原の戦いの始まりは、徳川家康が上杉討伐に向かう事から始まります。

その途中、家康は高次が治めていた大津城に立ち寄ります。そしてくれぐれもと、大津城を頼むと家康から言われてしまいます。

かたや、三成からもひっきりなしに勧誘の書状が届きます。挙句の果てには三成の家来たちが訪ねてきて、話し合いももたれました。

ここで高次が起こした行動が、関ケ原の戦いにも大きな影響を及ぼしたと言われています。

高次はまず、家康の合図征伐に弟の京極高知と家臣の山田大炊を伴わせました。再三大津城の事を心配する家康を安堵させるためだったのかどうかはわかりません。

そして三成には嫡子の京極忠高を人質として送りました。つまり双方に人質として身内を送ったのです。この時点ではまだ迷っていたのかもしれません。

もしくは、腹をくくっていたのかもしれませんが、決断はすぐに下されます。高次は西軍につくと三成に約束したのです。

安堵した三成ですが、ここからが高次の実力といいますか、なんといいますか。

西軍につくといいながらも、西軍の動向を逐一東軍、家康に伝えていたのです。つまり、本心では東軍についていた、というわけなのです。

ではなぜ一旦西軍につくと言ったのか。それはおそらくですが、家康はそのころ会津に向かっていました。しかし、西軍の三成は大津城にまでやってきていたのです。

大津城で高次と三成が会談していますしね。つまり今西軍を裏切ると、そのまま大津城は攻められて壊滅してしまう危険性があったと思ったのではないでしょうか。

あくまで憶測ですので真実はわかりませんが、それならば納得です。現にこの後、西軍の味方として高次も出兵します。

大谷吉継の軍と共に家康の後を追うのですが、途中でいきなり大津城に帰ってしまいます。

そしてすぐに籠城の準備をし、家康には「ここで西軍を少しでも食い止めます」と連絡するのです。

この事を知った西軍は激怒し、大津城を攻めました。その頃大槻城の近くにいたのは、西軍総大将の叔父、毛利元康でした。

そしてそれに加えて、西国一の弓取りと謳われていた立花宗茂。絶体絶命のピンチなのですが、高次はなかなか降伏しません。

城の中には初や、竜子もいたと言われています。

初の安否を気遣った淀殿(茶々)が心配して高次に降伏したほうがいいのではないかという書状も送ったそうです。(この関ケ原の戦いでは、淀殿はあくまで中立の立場にいました)

それでも降伏しなかった高次ですが、さすがに天守閣も大砲でボロボロ、これまでか、と思ったようで、籠城してから10日余りの後、やっと降伏したのでした。

高次はすぐに剃髪し、高野山に入ります。そうしてここでも命を失うことなくいたのでした。

さて、なぜこの大津城での籠城が関ケ原の戦いに貢献したのかといいますと、大津城を開城したその日、関ケ原の戦いが始まりました。

そしてあっという間に決着がついてしまいます。そこには、大津城攻めのために戦いに赴けなかった西軍の武将がいました。

毛利元康および立花宗茂の大軍勢です。この事が関ケ原の勝敗にもなんらかの影響を与えたことは確かでしょう。

後に高次は、その事で家康に高く評価され若狭一国8万5000石の大名となったのでした。

京極高次の死因、そして子孫たち

高次はこのように、度重なる命の危険を乗り越えて生き延びましたが、1609年、47歳の若さで亡くなります。

死因は不明のようですが、おそらくは病死か何かではないかと思います。そんな高次には子供がいました。

残念ながら正室の初との間に子は設けられませんでしたが、側室との間に子が生まれています。京極忠高と言います。

実は、忠高が生まれた際、高次と初の間でひと悶着ありました。高次が側室に子を産ませたとしると、初は嫉妬に狂い忠高を殺そうと企てます。

浅井三姉妹の中でも一番大人しく、そして冷静であった初がこの変わりよう。それぐらい強く高次の事が好きだったのでしょう。

さすがに忠高の危険を察した高次は、信頼する家臣を浪人にさせて忠高を預け、しばらく各地を放浪させました。

初の機嫌がなおるまで、と。そして二年後、ようやく気を静めた初を見て、高次は忠高を呼び戻します。以降は初も養子として育てていきます。

にしても、実に恐ろしきは女性の嫉妬。気持ちが深い分そうなってしまったのでしょうけれど。

そんな忠高は高次の死後、若狭一国を引き継ぎます。その後、大阪冬の陣では義母の初が仲介人となった講和を自らの陣で行ったり、大阪城の堀を埋めたりと、徳川のために働きます。

しかし、正妻として迎えた徳川秀忠の四女との仲はよろしくなく、なんと四女の死去の際には相撲見物していたとか。

それを秀忠や家光に知られてしまい、京極家は四女の葬儀に参列する事を禁止されてしまいます。

しかも、忠高には子がいなかったため、京極家はこれにて取り潰し……になりかけてしまったりも。

しかし、高次が頑張ってきた功績や、忠高の大坂の陣などでの働きを考慮して、京極家は忠高の甥の高知に引き継がれていきます。

高知の時代になると、京極家は播磨龍野藩を経て讃岐の丸亀藩や多度津藩へ。現在丸亀市ではいたるところで京極家の家紋をモチーフにしたものが見られます。

また丸亀市の市章には京極氏の馬印である「立鼓」が用いられたりもしています。

京極大橋という橋もあったり、大河ドラマ「江」の時には、ゆるキャラ・京極くんも誕生しました。

このように、京極高次の残したものは今の世でも息づいているようです。

京極高次の評価

「蛍大名」と呼ばれつづけてきた武将、京極高次。しかし、彼は本当に妻や妹の七光りだけでここまでの事ができたでしょうか。

確かに若い頃はその傾向にあったかもしれませんが、関ケ原の戦いの折の判断は高次だからこそのもの。

そもそも妻と妹の七光りを受けている状態でしたら完全に豊臣側についていないといけないはずです。

しかし、彼は豊臣を裏切り徳川につきました。こんな腹芸は、七光りだけで大名になった男ができるものではありません。

今でこそ、高次の評価は高いものになっているのではないでしょうか。